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21巻のネタバレ有りレビュー

21巻のネタバレ有りレビュー

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劉備は劉泌の甥である封を一目で気に入り、自分の養子にしたいと申し出ます。劉泌も劉備が民百姓を大事にする人物と知っていたので、喜んで申し出を受けます。

しかし、21ページ3コマ目のように関羽も張飛も呆れ顔です。確かに長男が家督を継ぐのがならわしで、そこに養子を貰えば後継者争いになりかねないからです。

劉備には阿斗(劉禅)という息子がいます。後に長坂はでの戦いで趙雲が助けだした子供です。

しかし阿斗は暗愚な人物で、劉備や五虎将軍(関羽、張飛、趙雲、黄忠、馬超)やその他の武将、また文官や多くの兵士が苦心して作り上げた蜀を、降伏することであっさりと魏に明け渡してしまいます。

今でも中国では愚か者のことを阿斗と呼ぶそうです。まあ、阿斗にはもともと一国の主としての器量が備わっていなかったのかもしれません。

それに比べると、今回養子になった劉封(りゅうほう)はまずまずの人物だったようです。ただ、彼は後日荊州を守っていた関羽が危機に陥った時、兵力が足りないからといって援軍を出しませんでした。

そのことを咎められて、劉備に死刑を言い渡されてしまうという悲劇が待っています。

例えば劉禅が病死でもしてしまい、劉封が生きていて劉備の後を継いだとしたら、もう少し蜀も長く存続したかもしれません。

単福は樊城が守るにはふさわしくないと言い、劉備たちは新野に帰ります。

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徐庶

曹仁と李典に対し、「よいよい。勝敗は兵家の常だ。気にするな」と優しい言葉を掛けて寛大な措置をする曹操。やはりこの辺りは彼の魅力です。

これが袁術とか袁紹あたりですと、厳しい処罰を加えたのではないか、と思ってしまいます。曹仁は曹操の弟あるいはいとこだそうですので同族のよしみもあったかもしれません。

しかし、曹操は部下の失敗を許したり、過去に対立していた勢力の人物も快く迎える度量がありました。

さて、程昱は単福の素性を知っていました。彼の名は徐庶、字は元直です。徐庶は友人の敵討ちに加勢したことで追われる身となりましたが、彼のことを役人に申し出る人はいなかったそうです。

それだけ故郷で慕われていたのです。そして友人によって奉行所から助けだされ、諸国を放浪するようになります。その後劉備も会った司馬徽(水鏡先生)に弟子入りしました。

劉備が水鏡先生の家で声を聞いたのはまさに徐庶だったのです。

徐庶の働きで大敗したことから、曹操は徐庶の能力を高く買ったのでしょう。曹操は徐庶を味方に引き入れたいと考えます。

そこで程昱は、孝行者で知られる徐庶の母を都に呼び寄せ、厚く世話をします。母も曹操こそ逆賊だということを知っており、命がけで徐庶が曹操の配下になるのを防ごうとしますが、程昱の優しさに恩義を感じ始めます。

そして、程昱にお礼の手紙を出すようになるのですが、これこそ程昱の狙いでした。その筆跡を元に、偽の手紙を作ってしまうのです。

最近、オレオレ詐欺という悪質な犯罪が多発していますが、同様の手口と言えます。

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徐庶が去る

思えば、徐庶は名前を変えて諸国を旅していた頃から、母に会うことができませんでした。それだけに思慕の念も強かったでしょうし、気丈な母も心が弱ってしまったと思ったのかもしれません。

こうして徐庶は、劉備たちに惜しまれながら都へと旅立ちます。なかなか見送りをやめない劉備が印象的です。

孫乾は、劉備に徐庶は自分たちの軍備などを全て知っている。それを曹操のところにやっては危険だ。それよりも徐庶をここに留めれば曹操は彼の母を殺し、徐庶は曹操を憎んで一層働くようになる、と進言します。

これは戦略的には正しい言葉だと思います。非情な曹操であれば彼の言をよしとしたでしょう。

しかし、劉備は仁君ですから、孫乾の言葉を退けます。ただ、徐庶も孔明も龐統も、劉備がこうした利益よりも人としての道を重んじたからこそ、彼の部下になったのでしょう。

まさに劉備らしさのうかがえるエピソードです。

さて、徐庶は隆中(りゅうちゅう)という村に住む、伏竜なる人物を玄徳に推薦して去ります。そう、彼こそ天才軍師である諸葛孔明です。

吉川英治は三国志について、曹操と孔明が主人公であると書いています。中国では劉備や関羽たちが三国志演義の主人公なのですが、孔明だけでなく悪役の曹操にスポットライトをあてているのが興味深いです。

ちなみに史実では、徐庶が劉備に「孔明に会ってみますか」と単に言っただけだそうです。

徐庶は、ついでに孔明に会い、劉備に仕えてくれるように頼もうとします。しかし、孔明は自分が去るかわりに劉備を自分に押し付けるのか、と冷淡な態度です。

仕方なく徐庶が「いつかわびる日もあろう」といって去っていくのが印象に残ります。

諸葛亮にしてみれば、自分は大志あって民のための政治をする人物に仕えたいと思っていました。そしてその人物を決めるのは自分だと考えていたはずですから、それが誰であれ、徐庶に押し付けられたのは確かに不愉快だったでしょう。

荊州で豊かな文化に触れ、不自由ない暮らしをしていた孔明一家ですが、叔父が予州を再び治めるように命じられます。しかし、予州には同じ命を受けて赴任していた者がおり、叔父の玄と戦争になってしまいます。

こうして自分を庇護してくれた叔父と叔母は殺され、孔明は弟の均とともに戦場を逃げまわるという体験をします。

その後、孔明は学者の石韜(せきとう)の門を叩き、学問を積みます。人並み外れた学力を発揮した孔明ですが、議論のために議論をして学問を人のために役立てようとしない学友たちをみて、学校をやめて村に引きこもってしまいます。

彼は、民の苦しみを救う優れた人物が登場するのを待っていました。そして、自分の学問をその人物のために捧げたいと考えていたのです。

86ページ、少年だった孔明は、戦乱を逃れて江東に逃げるときに、「難民をながめ、なぜ人間の群れはこんなにみじめに苦しむのかと考えた。

そして考えた。この世の中にひとりの偉人が出れば、この無数の難民は助かるだろうに。そういう大きな人物が現れないから小さな人間たちが欲望をむき出しにして世の中を混乱させるのだ」と考えます。

この孔明少年の考えたことは、現代にも通じる名言ですね。ということは、今も偉大な人間がいない、ということかもしれません…。哲学者のショーペンハウアーは、「生とは苦である」といったそうですが、物質的に豊かな現代の日本でも、このことは変わっていない気がします。

また、西暦200年前後の中国は、今の日本と違って民主主義も人権もありません。董卓のような暴君が実権を握れば、まさに「苛政は虎よりも猛なり」(ひどい政治は虎よりも恐ろしい)だったのです。

そう考えると、現代の人よりも、孔明が偉大な人物の出現を心待ちにした気持ちはずっと強かっただろうと思います。

98ページ、「万民みな生を楽しむような世の中をつくりたい。そのような世をつくろうとしている偉人を助けたい」。非常に高邁な志です。

そうして孔明が見込んだのが劉備だったわけです。劉備は上記のように、徐庶を快く送り出したり、呂布を受け入れてやったり、新野から逃げるときに(戦術的には疑問としても)民衆を保護したりと、確かに仁義を重んじて民のために誠実に生きました。

ただ、関羽の弔い合戦だとして孔明や趙雲の諫めも聞かず、公私混同をして呉に攻め入り、陸遜の策略の前に大敗しました(夷陵の戦い)。この敗戦がなければ、蜀は天下をとれていた可能性があると思いますし、孔明の心身にかかる負担も少なかったはずです。

また、劉備の子、劉禅も暗愚で、民のことは考えずに酒色に溺れました。

こうして考えると、孔明の民を救わんとする志に対して、劉備がそれを実現するだけの器を持った人物であったかという点には疑問を感じてしまいます。

ただ、劉備と孔明が漢王朝を復興し、民のための政治を行おうとしながら天下統一が果たせなかった悲劇の英雄であったところにこそ、三国志の味わいがあると思います。


徐庶の母

徐庶の母は、自分が生きていることで徐庶が劉備の元を離れてしまったことを深く嘆き、自ら死んでしまいます。

徐庶にとっては、母親を思って孝行しようと思ったことが程昱の策略によって裏目に出てしまいました。

ちなみに史実では、徐庶は石韜とともにそのまま魏に仕官しました。後日孔明が徐庶がたいして出世していないことを知り、「魏にはそんなに人材がいるのか」と嘆いたそうです(三国志英雄録 学研)。


三顧の礼

隆中に行き、孔明の庵(いおり)を訪ねた劉備たちですが、あいにく彼は留守です。その帰り、孔明の友人である崔州平の語る所を聞きますが、残念ながら民の苦しみを救うものではありません。

133ページの劉備の名言「だが万民が戦火の中を逃げ惑うのを宿命だからといって見てるわけにはいきません」

劉備は孔明が民を救う教えを説いてくれる人物であることを期待して、新野に戻るのでした。

二度目の隆中行き。居酒屋にいたのは残念ながら孔明の友人たちでした。劉備は孔明の家を訪ねますが、またも留守。

やむなく劉備は置き手紙を残し、吹雪の中を帰ります。


天下三分の計

ようやく起きた孔明。起きてすぐ詩を読むあたりはさすがです。孔明は劉備がじっと待っていたことを知ります。

劉備は孔明に力を貸してくれるように頼みますが、孔明は断ります。しかし三顧の礼のお礼にと、強大な曹操の魏と、順調に力をつける孫権の呉に対抗する策を献じます。

これが有名な天下三分の計です。すなわち西蜀の地で劉表から荊州を受け継ぎ、その後暴政の行われている益州の劉璋(りゅうしょう)を倒すことで、魏と呉に対抗しようという策です。

184ページの孔明の名言「そういうことでお悩みとは大義と小義を混同なさっておりましょう」。確かにその通りです。

結局それでも劉備は荊州を受け継ぐことをよしとせず、曹操に攻め立てられました。あくまでも人道を重んじたのが劉備の魅力でしたが、大きな弱点でもありました。

私は劉表の後を継ぎつつ、体の弱い劉琦と劉琮(りゅうそう。蔡氏の息子)と仲良くやればよかったんじゃないか、と思います。別に劉表に請われてのことですから簒奪でもありません。

劉琮も母親と叔父の蔡瑁は劉備を除こうとしていましたが、本人は劉備や兄への配慮も見せていましたし、そんなに揉めなかったのではないかと思います。

孔明は天下三分の計を披露しましたが、自分はやはりこの村で晴耕雨読の生活をすると言います。しかし、劉備が自分の力が足りないばかりに、漢王朝が滅びるのが目に見えるようだと落涙したことで、心を動かされます。

そして、劉備の部下として立つことを決めました。臥龍がついに起き上がったのです。

孔明は劉備が腹痛だということで、昨日劉琦が来てくれたお礼に劉琦を訪ねます。

劉琦は酒に誘い、珍しい本があるといって孔明を2階に連れていきます。しかし、これこそ劉備の入れ知恵でした。

そこには本などありませんでした。孔明は学問が好きですから、武具や宝物よりも確かに本に惹かれそうです。

下に降りるはしごも外されて、孔明は降りられません。そこで劉琦はどうしたらいいか相談を持ちかけ、自刃すら図ろうとします。

彼がよほど困っていることを知った孔明は、ある策を伝えます。

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