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60巻のネタバレ有りレビュー

60巻のネタバレ有りレビュー

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楊儀は魏に降ろうかとまで言い、そのことが費禕の耳に入ります。費禕は仕方なく劉禅に報告します。

劉禅は楊儀を斬れと命じますが、蒋琬のいさめによって楊儀を平民に落とします。楊儀はそれを恥として自決してしまいました。

楊儀にはなにをかいわんやです。

曹叡の贅沢ぶりに、心を痛める臣たちが司馬懿に相談します。司馬懿は、まだ魏の天下統一はなっていないのにこのありさまでは、と嘆きます。

そして、貴公たちのような忠臣がいてこそ魏の天下統一はなるのだから、忠言して命を奪われないようにと助言します。

曹叡もこれまでは手堅い政権運営をしていましたが、敵がいなくなってタガが外れたのでしょう。たいてい立派な宮殿を造り、政治をほったらかしてぜいたくにふけりだしたらその国は終わりとみてよいでしょう。

曹操も銅雀台を作ったりはしましたが、こんなに民を泣かせませんでしたし、帝位にもつきませんでした。

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司馬懿の名演技

しかしその後、曹叡は病気にかかり、司馬懿と曹爽(そうそう。曹真の子)に後を任せて死にます。曹叡の遺言通り、8歳の曹芳(曹芳。曹叡の子)が帝位につきます。

曹爽は部下に、司馬懿から軍権をとりあげるように助言されます。彼の優れた能力は危険だというわけです。こうして司馬懿は、名誉職の太傅(たいふ)に任じられます。

曹爽は、一族で兵馬の権を牛耳ります。彼らは贈り物を奪い合い、酒池肉林の世界を繰り広げます。司馬懿は、自分を太傅にしたのは曹爽だと見抜いていましたが、保身のために病気と称します。

曹爽の部下が司馬懿の病気見舞いに来ます。司馬懿はわざと耳が遠いふりをして、薬をだらだら垂らす始末。部下は司馬懿はぼけてしまってもう安心だと曹爽に報告します。もちろんこれは司馬懿の名演技でした。

これに気を許して、曹爽は狩りに出かけます。


政権転覆

曹爽が司馬懿の行動を知った時にはもう遅かったです。自分たちの家族も人質になり、都は司馬懿の軍に固められています。

しょせん曹爽などは司馬懿の敵ではありませんでしたね。司馬懿は兵馬の権を帝に返上すればとがめないといい、曹爽たちもこれを受け入れました。

ただ、これは司馬懿の嘘でした。これを機に曹爽たちの巨万の富を没収し、彼らを謀反の罪で処刑します。曹爽たちにないがしろにされていた幼い帝たちはいよいよ司馬懿を信頼します。

夏侯覇は、曹爽と一族ですので、司馬懿に兵を挙げます。しかし、孔明との戦いで鍛えあげられた郭淮の前にもろくも敗れます。夏侯覇は蜀の姜維を頼ります。


姜維立つ

姜維は2つの城を作らせ、北伐を開始します。羌族の助けも借ります。

郭淮は、敵の城が高地にあることを見て、上流の川をせきとめます。こうすれば城内の水が枯れるからです。

しかたなく李キンは打って出ます。それを見たもう一つの城の句安(こうあん)も援軍のために城外に出ます。李キンは姜維に援助を求めるために敵の包囲網を突破しますが、気づいた時には自分一人になっていました。

夏侯覇は、牛頭山に兵を向けるように提案します。しかし、牛頭山には陳泰(ちんたい)の兵がすでにおり、姜維たちは苦戦します。さらに郭淮に糧道を絶たれました。

しかたなく姜維は糧道を奪いにいきますが、そこには郭淮の兵が。姜維たちは陽平関にこもるしかありませんでした。ただ、そこには孔明の残した発明、連弩(れんど)がありました。

1回で10本の矢を射られるこの武器で、魏軍は損害を受けます。李キンたちの城は落ちてしまい、蜀軍は漢中に引き揚げます。

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司馬懿の最期

司馬懿は、本当の病気にかかっていました。彼は息子の師と昭に、権力を持つものはねたまれるので慎重に生きるように言います。

そして、静かに息を引き取りました。司馬懿の名言「諸葛孔明…なんと素晴らしい男であったろうか。あの世ではゆっくりと教えを乞いたい」。

英雄は英雄を知るの言葉どおりでした。仲達は才能があるので、曹操にも警戒されていました。しかし、忠実に曹操に仕え、曹丕、曹叡、曹芳にも信頼されました。

そして、あの諸葛孔明から(危ないところは何度もありましたが)魏を守りぬいたのはまさに偉業です。

処世術も巧みで、激しい権力闘争の中を生き抜いて、天寿をまっとうしました。とても優れた人物だったと思います。

その後、司馬師と司馬昭が帝の信任を得て、昭の息子・司馬炎が後に晋を建国することになります。

孔明との戦いで味方に臆病者呼ばわりされながらも、慎重な姿勢を崩さず、孫に天下を取らせた司馬懿。彼の生き様には大いに学ぶものがあります。


惰弱な劉禅

姜維は何度も北伐を重ねますが、蜀は兵も将も少なく、成功はしません。そのうちに国内に厭戦気分が高まります。

司馬昭は劉禅が酒と女に溺れ、厭戦気分が広がっているとみて、兵を挙げます。大将は鄧艾(とうがい)と鍾会(しょうかい)です。

姜維は守りを固めるために劉禅に何度も出兵を願う手紙を出しますが、宦官の黄皓(こうこう)が破り捨ててしまいます。

劉禅の迷言「朕は戦はいやじゃ。うまい酒とおまえ達がいればよい」。劉備の息子とは思えない情けなさです。戦がいやといって、あんたは戦場に出たことがあるのかと言いたいです。

姜維はこの愚かな君主のためと言うよりも、劉備と孔明のために戦い続けたような気がするのです。

陽平関や漢中も落とされ、姜維、廖化、張翼は剣閣に向かいます。ここが蜀の最後の砦だからです。


剣閣を守る

姜維たちは山上から岩を落としたり、連弩を浴びせることで、魏軍を立派に防ぎます。そこで、鄧艾は間道の陰平(いんぺい)から崖をよじ登って攻め入ることを提案します。

これは一歩間違えれば魏軍全滅の作戦でした。

鄧艾たちは、ろくに食事も取らずに、危険な山越えを行います。しかしこれ以上進めない断崖に出ます。そこで、縄をつないで、高い崖を降り、また登るという決断をします。

これまでに多くの兵が崖から落ちて死んでいます。それでも、兵士たちは敵地に乗り込めば戦功第一、ここまで苦労したんだという思いで、危険な行軍を続けます。

その結果、蜀の城は鄧艾軍によって次々に落とされました。といっても、もはや城の守備軍には闘志がなく、降服したのです。

216ページ、綿竹は諸葛亮の息子、センが守っていました。彼らはよく戦いましたが、士気の高い魏軍の前に敗れます。センと子の尚(しょう)は討ち死にします。

センはさすがに孔明ほどはずばぬけて優秀ではありませんでしたが、才能があり、有能な人物でした。そして父の名を汚さず、立派に戦い抜いたのです。


劉シン

劉シンの名言「もし運尽きて敗れましても潔く戦って死ぬならば、地下の先帝も評してくださいましょう」。

劉禅はもはや降伏を決めました。劉シンは自決をして先帝にお詫びをすると考えます。彼の妻も、幼い子供3人もそれを望み、死を選んだのでした。

劉シンとその家族はとても立派だったと思います。幼子までが死んでしまったのはとても哀れではありますが…。


蜀と英雄譚の終わり

劉禅からの使者は、蜀がもはや降服したことを告げ、戦いをやめるように言います。

それを聞いた姜維は耳を疑います。鄧艾たちの部隊がいたとしても、蜀と剣閣で挟み撃ちにすれば倒せるからです。

兵士たちは「今まで我らの父も兄も戦いで戦死しました。この戦いはなんだったのでございます」と怒り、剣を岩にぶつけて折りました。

本当に彼らの言うとおりです。蜀のために戦い続けてきたのに、君主が最初に降伏するとは。

姜維も「泣け、泣くがよい」といい、「丞相、蜀のあとを託されていながらこの始末、申し訳ございませぬ。この剣ももはや蜀のために使えませぬ」と言うのでした。彼の悔しさはいかばかりだったでしょう。

翌日、蜀兵たちは降服しました。その後、劉禅を酒色に迷わせ、蜀滅亡の主因となった宦官の黄皓は打ち首となりました。

ちなみに宦官は、後宮(皇帝の相手となる女性がたくさんいるところ)を管理する役人です。女性に手を出せないように、宦官は「大事なところ」をなくしています。

そのため、性的な欲がなくなり、歪んだ出世欲などが強まると言われています。宦官が国をおかしくした例は数多いようです。


劉禅のその後

劉禅は魏でのんびり余生をすごしました。魏の臣から蜀が恋しくはなりませんか、と聞かれて、ここが楽しいので蜀は恋しくなどなりません、と答えます。

これには魏の人たちも、劉禅の家臣もさすがにあぜんとしました。そこで、家臣がそっと、あのような質問をされたらもう少し悲しそうな顔をしてくださいませ、と忠告します。

そして、「陛下のために死んでいった者の気持ちもお察しくださいませ」というのでした。

私はもはや劉禅について何かいう気力もありません。彼にはもともと人の上に立つだけの能力が備わってなかったのだと思っています。

劉禅は65歳まで、魏で捨扶持をもらい、のんびり生きました。

251ページ、壮大な横山三国志の最後の場面です。「全知全能を使って国造りにはげんだ英雄達の夢も消えた。あとに聞こえてくるは新しい王朝の足音であった」


総括

蛇足ながらすこし解説を。姜維は自ら孔明に及ばないとは知りつつも、孔明の悲願をかなえるために、蜀のために戦いました。彼が北伐を重ねたことで国力を損なったと言う批判もあります。

しかし、それでは国力増強に努めていたら魏を倒せたかといえば、それは無理だったでしょう。なにしろ蜀にはほとんど人材がいません。自分の能力を発揮できるうちに魏を倒したいと姜維は考えたのだと思います。

つまるところ、やはり劉禅という君主がいたところに蜀の最大の悲劇が会ったのだと思います。249ページで魏の臣が「なんという男じゃ。これでは孔明が生きておっても、蜀の運命はどうにもならなかったであろう」と考えますが、これが全てだと思います。

姜維は降伏後、まだあきらめませんでした。魏の鍾会を寝返らせて魏を討とうとしたのですが発覚し、家族とともに処刑されてしまいました。

私は最後まで戦った姜維は立派な武将だったと思っています。

魏は、司馬炎が元帝を退位させ、自ら帝となって晋を建国します。西暦265年のことです。

呉は、孫権が没し、子の孫皓(そんこう)が後を継ぎます。しかしこの孫皓は暴政をしいてしまい、国力を大きく低下させます。

そして西暦280年。呉征合戦で孫皓軍が敗れ、呉は滅亡。三国時代は終りを告げ、晋が天下統一を果たしたのです。

21巻で諸葛孔明は、劉備の三顧の礼に感銘を受けて家を去ります。そのとき弟に、「功成り名をとげる日もあれば、またここに帰って来る日もあるだろう」と語りました。

ただ、残念ながら孔明の生きているうちに蜀による天下統一はならず、彼が隆中の家に帰る事はかないませんでした。

五丈原に散った彼の夢。それでも、天才軍師として、名宰相として時代を駆け抜けた諸葛孔明の生き様は、現代でも世界中の至る所で伝説となっているのです。

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